教官 | 人は皆、ポエマー |
教科(講座) | 大学生のための痛ポエム概論 |
投稿者 | とーこ。 |
投稿日 | 2022年08月06日 |
評価 | ど仏 |
テスト | |
レポート | あり |
出席 | あり |
コメント | 毎朝、起きるたびに出席を確認する。「今日も僕・私は生きている。」それが何のためかも考えず。誰のおかげかも想像せずに。さらに毎日テストが行われ、問いに答える。「今日も僕・私は立派にやれている、尊敬される人間に着実に近づいているだろう。」それが本当の自分なのかも考えず。誰のためなのかも想像せずに。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大学生とはどんな生の形式だろうか。若さにかまけて時間を食い潰すモラトリアム?社会適合的で個性的なエリートになるためのトレーニング期間?自分より劣っているであろう人間を見つけて自己満足に浸るボーナスタイム?答えは別に重要ではないだろう。むしろ重要なのは問いの方ではないだろうか。いや、この言い方には語弊がある。問いそれ自体ではなく、問うという行為こそ重要なのだろう。だって、大学生はいつだって"それ"を忘却しているのだから。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、何故その問いをを忘れてしまったのだろうか。それは複雑な要因のネットワークから発生したものであり、正確に全てをカバーして言い当てることは容易ではないだろう。しかし、根本にあるのは恐らく傲慢さである。自分は優れており、問う側の人間ではないのだ。答える側の人間なのだ、と。そう思っていることが何より忘却の源泉ではなかろうか?ここには問うことを軽視する視点がある。何より、普段からそれを刷り込まれている。問う側は愚者であり、答える側は賢者であると。しかし、問うことを忘れた者が賢者であるなどと、本気で心の底から思うことが出来るのか。小生には出来ない。むしろ賢者とは、問いに問い続け、その問いが答えになるまで問い続ける者のことではないだろうか。問うことと答えることが連結し、それが不可分であることを知っている。そういう均整の取れた愚かさを持っている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々、すなわち大学生の多くは、他者について想像する時に自分の都合に上手く適合するように他者の像を想う。そう、自分が優位であることを確認するために、自分は賢く生を送っていることを確認するためだけに、他者に愚者の像を重ねてこう想うのだ。「僕・私はもう立派にオトナだが、あいつらはまだコドモをやっている、僕・私だけは、素晴らしい人生を送れるんだ。」しかし残念ながら、我々は誰もがみな大人などという大層な存在ではないだろう。誰しもが今現在、自分が所有する固有の若さにかまけて、あらゆる仕方で時間を食い潰す愚かな子どもである。今まさに、私がこの文章を書いている様に、である。自分が着実に死に向かっていることに想像力を使えない。むしろ、生きているという事実に胡座をかくことしかしない、いや、出来ないのだ。それは仕方のないことだ。だって我々は生きている。死の淵に立たされているわけでは決してないのだ。だから他者を好き勝手に想像することはしても、思い遣ることはしない。どうしたら、そんな雁字搦めの呪縛から自分を解き放てるのだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やはり肝要なのは、自分自身にすら遠慮せずに、問い続けることではないだろうか。実際、この文章で答えてきたことには何らの正解も含まれていないだろうと、これを批判的な視線で読む者ならば考えるだろう。ある特定の視点からの理解を促したに過ぎないと。しかし、その促進作用をもたらしたものは…やはり問いなのである。問うことと答えることは連結だが、答えたことが正解だとは限らない。そんな不確実性に支えられた営みに過ぎないことを思えば、自然と「そもそも、問いとは、問うという行為は何なのだろうか?」という風に、疑問符が湧いて出て来る。これは時間的な因果から言って、答えの前に立ち現れるものである。2つは不可分ではあるが、少なくとも順序関係くらいはあることについて認めても良いだろう。話を戻せば、「問い以外のものに向けられる問い」と、「問いそのものに向けられる問い」は、互いに質的に相違なクエスチョンであろう。前者は問いに肉付けしていく登り道を行くが、後者は「問いそのものを崩壊させてしまう道ならぬ道」を行く。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々ポエマーは、まさにこの道から"人生を再開する"としよう。単に大学生としてだけではなく、"自分の人生"を。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・じゃかりこを食べつつ、「まぁこんな感じのオチを付けて〆れば良い感じになるか。"自分の人生"というクリシェで締めれば。」などと考えながら。2022年8月・とある土曜日の昼下がりにて。 |
|
|
|